平成27年2月27日
一般研究発表 大久保啓次郎
『明治14年の政変』で福澤諭吉に濡れ衣を着せた黒幕井上毅
福澤諭吉は明治12年に、報知新聞の社説に「国会論」を掲載したところ、にわかに全国各地で国会開設運動が活発化して、自由民権運動に発展し、過激になってきた。福澤諭吉は過激化した自由民権運動を好まなかった。
伊藤博文、井上馨、大隈重信の3人も福澤と同様な考えであった。
そこで、彼等3人は福澤を抱き込み、彼に「新聞発行」を依頼し、(国会開設を前提に)過激な自由民権運動を牽制しようとした。
国会開設に関しては、伊藤、井上、大隈、の3人も同意見であったが、開設時期に関して大隈は急進論(明治16年開設)で、伊藤、井上は漸進論であった。
国会開設と同時に憲法制定も話題になっていた。
憲法制定に当たっては、大隈は(福澤も)英国型憲法=交詢社私擬憲法を、推奨し、伊藤はプロイセン型(ドイツ型)憲法を推奨していた。
この時期に、北海道開拓使官有物払下事件が発生する。
黒田清隆(旧薩摩藩)開拓使長官は、政府が1,500万円投じて開拓してきた物件を、38万円で薩摩出身の民間人に30年間無利子で払い下げる事を裁可。
これが新聞で取り上げられ、国民の不満は薩摩に向けられ大事件となった。
「国会が無いから政府の官吏が勝手にこのような事が出来るのだ。政府としては1日も早く国会を開かねばならない。」と、この問題を取り上げた大隈の株はにわかに高くなった。ところが、たまたまその頃、誰言うとなく、大隈は民間の政客と気脈を通じ、福澤が謀主となり、三菱の岩崎が軍資金を受け持って、政府乗っ取りの陰謀を企てているという風説がまことしやかに囁かれ始めた。
そこで伊藤の画策が始まった。さしあたり当面の問題である大隈罷免、開拓使官有物件払下中止、国会開設の時期を閣議で明治23年に決定した。
このように「明治14年の政変」とは、自由民権運動の高まりの中で、政府内での国会開設と憲法制定に関する議論と、官有物払下に関する反対運動の二つが、時期的に絡み合った結果、一旦決定した払下げは中止となり、国会開設と憲法制定方針が、伊藤の提案通りに決まり、大隈参議とそれに繋がる人脈
と同時に、「明治14年の政変」劇を利用して、井上毅が福澤諭吉の文明開化思想を、完全に葬り去る事(「人心教導意見案」➔「教育勅語」)に成功した事件である。
井上毅は伊藤の部下として背後で黒幕として活躍した政変劇の陰の主役である。福澤諭吉は井上毅の活動どころかその存在さえ全く知らなかった。
{松沢弘陽校注『福澤諭吉集』岩波書店:2011年(補注:461頁〜462頁)}
『明治14年の政変』事件の知られざる真相とは?
1.福澤諭吉は「明治14年の政変」の真相を何も知らないのに{真実は「明治辛巳紀事」に書いてある}と『福翁自伝』(明治14年の政変)で語っているが、「明治辛巳紀事」(全集20巻232頁)では、井上毅の事には一言も触れていない。井上毅の陰謀を全く知らなかったのが事実である。(松沢弘陽)
2.現在では「明治14年の政変」劇の黒幕が井上毅だという事は明白であるが、当時には福澤諭吉は勿論、側近の石河幹明も知らなかったし、平成5年まで生存していた富田正文さえも政変の真相を知らなかった。
{石河幹明著『福澤諭吉伝』岩波書店 第3巻:第33編「明治14年の政変」
(昭和7年)や富田正文著『考証福澤諭吉』岩波書店下巻「明治14年の政変」(平成4年)でも井上毅が交詢社の私擬憲法について危険視していた事は書かれているが、政変劇に於ける陰の主役であった事は書かれていない。}
では、「井上毅の黒幕説」を最初に明らかにしたのは誰で、いつ頃の論文発表
➔大久保利謙(大久保利通の孫[1900年〜1995年])で下記の通り。
大久保利謙著『明治14年の政変と井上毅』乾元社(1952年=昭和27年)
著者は「あとがき」で「拙稿は、去る昭和27年、開国百年記念文化事業会の依頼によって『明治文化史論集』に寄稿したものであるが、締め切りを前にして、・・・並びに井上匡四郎所蔵の「井上毅文書」から新資料の提供をして頂き急いでまとめたものである。」と語っている。
「明治14年政変の研究史を検索する場合、ここに収録された同論文の学説史上
(大久保利謙『明治14年の政変』解説:石塚裕道)
その後、政変展開での政治対立の舞台裏に登場する太政官官僚の井上毅の役割
●山室信一著『法制官僚の時代』木鐸社(1984年=昭和59年)の「明治14年の政変」に関する著述(250頁〜338頁)も井上匡四郎所蔵の「井上毅文書」をベースに書かれている。
●伊藤弥彦著『維新と人心』東京大学出版会(1999年=平成11年)の第4章
●渡辺俊一著『井上毅と福澤諭吉』日本図書センター(2004年=平成16年)は、全般に亘り上記の大久保利謙及び山室信一の書籍を参考文献としている。